時代の風~第53回 数値目標による評価 「測りすぎ」ていないか?(2022年5月29日)
私は、2016年4月から、毎日新聞に『時代の風』というコラムを、6週間に1回、連載しています。 現代のさまざまな問題を、進化という別の視点から考えていきますので、ご興味のある方はご一読ください。
数値目標による評価 「測りすぎ」ていないか?
昨今はどんなところでも「数値」が幅を利かせている。仕事に関して数値目標を示す、いろいろな機関をランク付けする、論文の被引用率によって論文の質を評価する、などなどだ。それらの数値を材料として、その機関や個人の評価がなされる。そして、それが客観的で透明性のあるやり方だとされている。
本当にそうだろうか? 国立大学は、 6 年ごとに中期目標・中期計画を立て、その達成度を測るための指標を設定せねばならない。各大学が独自に設定する指標と、文部科学省によって一律に設定される指標とがあり、それらの達成度によって、運営費交付金の額が増えたり減ったりする。
私はこんなことに 10 年ほど付き合ってきたが、数値目標の設定と達成のための努力とデータ収集は大変な苦労であり、徒労感を覚えることが少なくない。「評価疲れ」という言葉をよく聞くが、現場は本当にその通りなのである。これは私たちが真剣に取り組むべきことなのか。このような評価をすることによって、何が具体的に良くなるのか。疑問が尽きないのだ。
もちろん、いろいろな成果を数値化して表し、それを公表し、似たような組織同士や個人同士で比較することによって、そうしない時にはわからなかった実態が明らかになり、事態を改善する方策が見つかることもある。
しかし、数値化した指標が、知りたい事柄の実態を本当によく代表しているかどうかは、どうしたらわかるのだろう?数値目標をもとにして、組織に対する配分金額や個人の給与に差をつけるという発想は、組織の目的は複雑であり、単純に測れないものがあることや、個人が働く動機は、金銭的なものだけに限らないことを忘れていないか。そもそも、こういうことに躍起になるのは、ある分野の人間が培ってきた経験値と価値観による、その人の判断というものを信用しないからなのではないか。
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そんなことを個人的に考えている時に出合ったのが、ジェリー・ Z ・ミュラー著「測りすぎ」(松本裕訳、みすず書房、 2019 年)である。著者は、アメリカの大学の歴史学の教授だ。数偏目標などに関する専門家ではないのだが、学科長になって、自身がこのような数値目標達成の大波にのまれることになった。そこで私と同じように矛盾を感じ、いろいろとその歴史などを調べて本書を著した。
本書の中には、私が個人的に思っていたことのほとんどが明確に分析されている。測ろうとすると、数値で測定できるものしか測定できない▽そうやって測定できたものが、測定したいものを正確に反映しているとは限らない▽数値目標の達成度によって資源の配分などを決めると、低い数値目標を置いたり、事柄の分類を変更したりする 欺瞞(ぎまん) を招く▽数値目標の達成こそが目的となり、それが達成されたとしても、その組織や個人が本来やるべき業務はかえって悪化することもある▽数値化して比較すると、各組織や個人の個性は消されて均質化を招く― - などなどだ。
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数値目標やコスト計算、能力に応じた給与、という言葉は、自由主義経済のにおいがぷんぷんするが、事実、その通りなのだ。自由市場で利益をめぐって互いに競争している会社以外の組織に対し、会社と同じような原理に基づいて競争させれば、中身がもっと良くなるはずだと考えた人がいた。それはロバート・ロウという英国自由党の議員だったようで、なんと、 18 62年の話である。
ロウは、政府から学校への財政援助は、「結果に応じた支払いを基本とする」とした。そして、公立学校の生徒に対して読み書き、算数の一斉テストを行いその成績に応じて補助金に差異をつけた。すると、テストの前には、読み書き、算数以外の科目を全部取りやめてテスト勉強だけをさせる学校も出てきたということだ。まさに悲喜劇である。
それに対する批判は当初からあったものの、測定の文化は、利潤追求以外が目的の組織にまでどんどん拡大していった。ミュラーはこれを「測定執着」と呼んでいる。どんな批判があっても、目に見える数値というのは、客観的で真実らしく見えるらしい。日本は欧米に比べて周回遅れで測定執着にはまりこんでいるのではないか。このこと自体の検証が必要と思われる。
( 2022 年5月29日)