時代の風~第37回 進化をめぐる誤謬 ~価値判断は別個のもの~(2020年6月28日)

時代の風

私は、2016年4月から、毎日新聞に『時代の風』というコラムを、6週間に1回、連載しています。 現代のさまざまな問題を、進化という別の視点から考えていきますので、ご興味のある方はご一読ください。

進化をめぐる誤謬 ~価値判断は別個のもの~

2016年にノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランさんの名曲の一つに「風に吹かれて」がある。「いったいいくつの大砲の弾が飛べば、大砲が禁止されるのだろう?」「いったいいくつの耳を持てば、人々の泣き声が聞こえるようになるのだろう?」などなど、世の悲惨がいっこうになくならないことに対する嘆きの歌である。

私も同じ気持ちになることがしばしばある。核兵器廃絶や飢餓の問題もそうだが、今回は、ダーウィンの進化理論に関するものだ。

自民党の公式ホームページに、改憲を促す漫画が掲載されている。「ダーウィンの進化論ではこういわれておる」から始まり、「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である」という説明に続き、「これからの日本をより発展させるために、いま憲法改正が必要と考える」という結論になる。

私は進化生物学者であり、とくにヒトの進化に関して研究している。あちこちの大学で、進化や人間行動についての講義をかれこれ30年ほどやってきた。そこでは、必ず、こういった議論の進め方は間違いだと教えてきたのに、また今回の漫画である。ああ、いったい何回話せば、こういう間違いが正されるのだろう?

まず、簡単なところから事実誤認を指摘したい。「最も強い者が生き残るのではなく......」のくだりだが、ダーウィンはこんなことは言っていない。これは、レオン・メギンソンという経営学者が、1963年に「種の起源」を読んだ自分の感想として論文に書いたことが、ダーウィンの言ったこととして流布されてしまったものだ。この誤解は、自民党だけではなく、世界中に広まっているらしい。これはダーウィンの言葉でも現代進化学の通説でもないので、これを機会にこの言説を根絶したい。

では次に、「唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である」というメギンソンの考えは、現代進化学的に見てどうなのか? これは、進化をまったく理解していない、間違った考えである。進化という現象は、ある集団において、世代を経るごとに集団中の遺伝子の頻度がどう変化していくのか、という「集団レベルで、世代を経て」見える現象である。一方、「変化できる者」というのは一個体のことだ。個体に起きる突然変異が進化の原動力であるのは確かだが、突然変異がどこの誰にどう起こるかは、偶然の事象に過ぎない。

また、進化では、このように偶然で生じた変異が、次の世代に引き継がれて増えていけるかどうかが問題なのだ。最終的に重要なのは個体が「生き残る」ことではなく、繁殖を繰り返す中で、時を経てそれ以降の世代にその変異が増えていくかどうかなのだ。実際の進化では、偶然に生じたランダムな変異が、その時々の環境に応じて、増えたり減ったりするので、唯一の「良いモノ」などは存在しない。

現代進化学は、かなり複雑な理論と実証で成り立っている。そして、新たな発見によって改定されている。進化について書きたいならば、少なくとも現代進化学の実際を知ろうという謙虚な態度を持ってほしい。

最後に、科学の知見は、ある特定の価値観を正当化するものではない、ということを指摘したい。ニュートンの重力理論があるからといって、物は下に「落ちるべき」なのではない。「である」という叙述から「べきだ」という判断を自動的に導くことは、「自然主義の誤謬(ごびゅう)」と呼ばれる間違いだ。

だから、現代進化理論が何を言おうと、そこから直接に、「私たちは〇〇をすべきである」という判断は導かれない。価値判断は別個にある。科学的知見は、そういう価値判断を下すときの材料であり、価値判断に基づいて何かを実行するときに使う知識なのだ。

生物は、実際に生き残るよりもずっと多くの子を生産し、そのほとんどが成体にならずに死ぬ。これは生物学的事実であり、進化が起こる基礎でもある。これをもってして、「多くの子どもは死ぬべきだ」と主張する人はいないだろう。

間違いは間違いであり、「多様な意見の一つ」ではない。間違いを正すことは学者の責任だと思う。こういう答えもまた、「風に吹かれて」しまうのだろうか?

( 2020 年6月28日)

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