時代の風~第39回 現代における神頼み 望むことで得る平安(2020年9月20日)

時代の風

私は、2016年4月から、毎日新聞に『時代の風』というコラムを、6週間に1回、連載しています。 現代のさまざまな問題を、進化という別の視点から考えていきますので、ご興味のある方はご一読ください。

現代における神頼み 望むことで得る平安

アマビエという妖怪をご存じだろうか? 江戸後期から明治初期にかけて話題になった妖怪である。海から出現し、疫病がはやった時には、自分の肖像を飾れば疫病退治ができると人々に伝えたという。

ことの真偽は当時から疑問視されていたようだが、このコロナ禍に及んで、一躍アマビエが脚光を浴びている。厚生労働省が作製した、新型コロナウイルス感染症拡大防止のためのポスターにもイラストで登場する。私は知らなかったのだが、友人が、うちのイヌのマギーがアマビエに似ていると言うので調べてみた。本当に似ているかといえば、まあ、鼻面が長くて、首の周りの毛がボサボサしているところぐらいか。

コロナがなければ、アマビエなんて誰も知らなかったに違いない。それにしても、本当に御利益を信じているのかどうかはともかく、ヒトという存在は、どうしても「神頼み」を捨てることはできないようだ。

私は人類の進化を研究する生物学者である。だから、私たちヒトがどうしてこんなふうに世界を捉え、こんなふうに感じ、こんなふうに行動するのかを研究している。そこで、ヒトがなぜ「神様」という存在を必要とするのかについても、知りたいと思っている。

英国の著名な進化生物学者のリチャード・ドーキンスは、ずっと一貫して既存の宗教を攻撃し、神を信じるのはやめようというキャンペーンを張っている。その著作は数冊あるが、どれも痛快で説得力が高い。

私はといえば、伝統的に仏教の家に生まれ、父方と母方で宗派は違うが、基本的に仏教の伝統で育てられてきた。しかし、大人になって科学者になり、今でははっきりと無神論者である。それでも、親の仏教のみならず、日本に古来存続する、万物に霊を感じるアニミズム的なものも、何か私の心の奥深いところで核となっている気がする。

もう十数年以上も前になるが、カンボジアのポル・ポト政権が行った虐殺の跡地を訪ね、山積みになった骨や、いまだに犠牲者の着ていた衣服の切れ端が土の中から顔を出しているようなところを見た後、どうしてもお寺に行って拝みたくなった。そして、私とは縁もゆかりもない仏教の宗派のお寺なのだが、裸足で上がってペタンと座り、お祈りをすることで、少しは心の平安が得られた。あれは何だったのだろう?

これまでの私の人生では祖父母や母が次々に高齢で亡くなった。その命日やらお盆やらは、それなりに行事を行っている。しかし忘れてしまうこともある。

ところが、去年の4月に私たちが可愛がっていたイヌのキクマルが老衰で亡くなった。ほぼ15歳だった。イヌとしては高齢で大往生なのだが、人間の人生からしてみれば15年は短い。キクマルは本当に可愛い子だった。キクの位牌(いはい)にお水をやる、命日にお花を飾る。自分の母に対するよりもずっと気遣っている自分がいる。これは何なのだろう?

人間が「神様」を必要とする理由はたくさんある。宗教の教義にかかわらず、ヒトにはある種の善悪の感覚がある。そして、善が悪に負けている状態を見ると何とかしたいと欲する。ところが自分の力がまったくそれに及ばないことがわかると無力感に陥る。そこで、自分たちの力を超えた全能の存在が、いずれ何とかしてくれるだろうと信じたいのだ。無力な自分には、そう望む以外にできることがない。そう望むことで心の平安を得るのである。

自分にとって大事な個人が早世したことに対してもヒトは何らかの慰めが欲しい。自分が彼らをケアしていることを示し、彼らがそれを見て幸せな気持ちでいると思いたいのである。

私は無神論者である。それと同時に、私は、以上のような感情を持っている。だから、行動としては、私は信念と矛盾したことをしている。それでもいいのだと思う。宗教心は、そんなに簡単なものではない。

ヒトは、自分で周囲の出来事を制御できると安心する。が、どうにもならないことがしばしば起こる。その時には、自分を超越した存在にお願いし、ひとまずそちらに任せることによって安心を得るのだろう。

科学は、この世界の成り立ちについて多くのことを明らかにしてきたので、世界の説明では宗教の入る余地は少ない。しかし「安心」のよりどころとしては?

( 2020 年9月20日)

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