2022.08.18
【プレスリリース】安定同位体分析により野生オランウータンの糞から食性を探る
安定同位体分析により野生オランウータンの糞から食性を探る
蔦谷匠 1, 2 , アンナ・ウォン 3 , ピーター・マリム 4 , ヘンリー・ベルナルド 3 , 小川奈々子 2 , 大河内直彦 2 , 本郷峻 5 , 田島知之 5 , 金森朝子 1 , 久世濃子 6, 7
1 総合研究大学院大学, 2 海洋研究開発機構生物地球化学センター, 3 マレーシア・サバ大学, 4 サバ州野生生物局, 5 京都大学, 6 国立科学博物館, 7 NPO法人日本オランウータン・リサーチセンター
国立大学法人 総合研究大学院大学
国立研究開発法人 海洋研究開発機構
【研究概要】
東南アジアの熱帯雨林に生息するオランウータンは絶滅の危機に瀕しており、その生態の調査と保全が急務です。効果的な保全のためには、オランウータンが何を食べて生きているのか(食性)を調べることが重要です。オランウータン個体を毎日追跡して、食事の様子を丹念に観察して食物をひとつひとつ記録していけば詳細な食性のデータが得られますが、時間と労力がかかり、人に慣れておらずすぐ逃げてしまう個体では観察ができないという問題がありました。本研究では、そうした行動観察の問題を克服し得る安定同位体分析 (地球科学などの分野で用いられている、化合物の起源を推定するための手法)による食性推定を、野生オランウータンに対して初めて応用しました。日本の研究チームが18年以上調査を継続しているダナムバレイ保護区(マレーシア、サバ州)に暮らす野生のボルネオオランウータンを対象に、18ヶ月間にわたって集めた糞と食物を安定同位体分析しました。炭素と窒素の安定同位体は、食物の値が体組織や排泄物に記録されるため、糞中に含まれる同位体の存在比を調べることで、その個体が何の食物をどの程度食べたのかを推定できることがこれまでにわかっています。ところが、分析の結果、同じ大型類人猿であるアフリカのチンパンジーやゴリラの生息する熱帯雨林と異なり、野生オランウータンが生息するダナムバレイでは食物の安定同位体比が非常に均質で、原生林内での食性推定にはあまり効果を発揮しないことがわかりました。しかし、人為的な影響下にある農地や伐採林の食物をオランウータンがどのくらい食べているかを、安定同位体分析によって容易に推定できる可能性も示唆されました。糞の安定同位体分析は、野生オランウータンの食性の変化を比較的短時間で簡便に把握できる新たな保全ツールになる可能性があります。
研究の背景
オランウータンは野生下では現在マレーシアとインドネシアの熱帯雨林にのみ生息する大型類人猿で、IUCNレッドリストでは「絶滅寸前」と指定されています。観光資源としての経済的価値や保全上のインパクトが大きい種であり、オランウータンの生態を詳細に調査し、保全のための方策を立案し実行することが急務となっています。
これまで、オランウータンを含む野生霊長類の生態調査は主に行動観察によって行なわれてきました。研究者が群れや個体を毎日ずっと追跡し、詳細なデータをとることで、オランウータンが何をどのくらい食べて生きているか(食性)について、これまで多くのことがわかってきました(図1)。しかし、行動観察には多くの時間と労力がかかり、また、人に慣れておらずすぐ逃げてしまう個体では観察ができないという問題がありました。伐採の危機にさらされている広大な森で新たなオランウータン個体の食性を迅速に調べるためには、より短時間で簡便に実施できる方法が必要です。
そのための方法として、安定同位体分析という手法が応用されはじめています。自然界には重さが少し異なる原子(同位体)があり、さまざまな物質に異なる比率で存在しています。動物の体組織や排泄物は、食物に含まれる安定同位体の存在比を反映します。そのため、野生オランウータンの糞と食物の炭素や窒素の安定同位体の存在比を測定することで、どのような食物をどのくらいの割合で摂取していたかがわかります。試料を採取して分析すれば短時間で結果が得られ食性がおおまかにわかるため、安定同位体分析は食性をすばやく簡易的に調べるのに役立ちます。
研究の内容
本研究では、安定同位体分析による食性推定を野生オランウータンに対して初めて応用しました。対象としたのは、日本の研究チームが2004年以降調査を継続しているダナムバレイ保護区(マレーシア、サバ州)に暮らす野生のボルネオオランウータンです。現地の調査アシスタントなどの協力を得て、2016-2018年の18ヶ月間にわたって糞と食物(そのほとんどが植物)を集め、糞94点と食物164点を安定同位体分析しました。
その結果、まず、ダナムバレイのオランウータンの食物では、果実や葉や樹皮などの部位による炭素・窒素安定同位体比の差が見られませんでした(図2a) 。アフリカの熱帯雨林に暮らすチンパンジーやゴリラの食物では、果実と葉の同位体比が異なることがわかっていますが、そうした知見に反する結果でした。 ダナムバレイでは、たとえば、安定同位体分析によって果実と葉の摂取割合を推定するようなことができない、ということになります。
食物の同位体比が均質だったため、オランウータンの個体間で比較した際にも、糞の同位体比には差が見られませんでした(図2b )。したがって、少なくともダナムバレイにおいては、炭素・窒素安定同位体分析はオランウータンの食性の性差や年齢差を調べる手法としては適していないことがわかりました。
しかし、人為的な影響を受けた農地や伐採林の食物をオランウータンがどのくらい食べているかを調べる際、安定同位体分析が役立つ可能性もあります。ダナムバレイのようなヒトの影響がほとんど加わっていない一次林の植物に比べて、肥料を与えられた農作物や、伐採によって開けた森林の植物は、異なる炭素・窒素安定同位体比を示すことがわかっています。均質な一次林の同位体比から逸脱した値を示す糞が得られた場合には、その個体群に人為的な影響が及んでいるとわかる可能性があります。オランウータンは農業害獣として違法に殺されてしまうことがあり、ヒトとオランウータンのあいだの軋轢を把握できる方法になるかもしれません。
今後の展望
ヒトに近縁な大型類人猿のうち、群れで暮らすチンパンジーやゴリラでは試料の数を集めやすいため、同位体分析の研究も数多く行なわれています。しかし、単独性のオランウータンでは長い時間をかけなければ十分な数の試料が集まらないため、これまでほとんど同位体分析を利用した研究がなされてきませんでした。本研究は18ヶ月の期間をかけて分析試料を収集しましたが、それでも、東南アジアの熱帯雨林に特有の一斉結実期の試料を集められておらず、オランウータンの食性の全体像を同位体の観点から明らかにするにはまだデータが足りません。
また、野生オランウータンの食性に対する人為的な影響を調べるために安定同位体分析が有用である可能性が本研究によって示唆されましたが、この可能性をさらに追究するためには、農地や伐採林の植物のほか、人為的な撹乱を受けた生息地に暮らすオランウータンの糞についても安定同位体分析を実施する必要があります。また、オランウータンは泥炭湿地林や高地林にも生息しており、そうした異なる生息地でも同様の傾向が見られるのかは不明です。本研究の成果によって、絶滅寸前種であるオランウータンの保全を効果的に進めるために探索するべき研究の方向性が具体化されたと言えるかもしれません。
著者
- 蔦谷 匠
(総合研究大学院大学 先導科学研究科/統合進化科学研究センター 助教、海洋研究開発機構 生物地球化学センター 外来研究員、NPO法人日本オランウータン・リサーチセンター 理事) - アンナ・ウォン
(マレーシア・サバ大学 熱帯森林学研究科 講師) - ピーター・マリム
(サバ州野生生物局) - ヘンリー・ベルナルド
(マレーシア・サバ大学 熱帯生物多様性保全部門 教授) - 小川 奈々子
(海洋研究開発機構 生物地球化学センター 主任研究員) - 大河内 直彦
(海洋研究開発機構 生物地球化学センター 主任研究員) - 本郷 峻
(京都大学 アフリカ地域研究資料センター 特定研究員) - 田島 知之
(京都大学 宇宙総合学研究ユニット 特定助教、NPO法人日本オランウータン・リサーチセンター 理事) - 金森 朝子
(総合研究大学院大学 統合進化科学研究センター 研究員、NPO法人日本オランウータン・リサーチセンター 理事) - 久世 濃子
(国立科学博物館 人類研究部 協力研究員、NPO法人日本オランウータン・リサーチセンター 理事)
論文情報
- 論文タイトル
Stable isotopic investigation of the feeding ecology of wild Bornean orangutans - 掲載誌
American Journal of Biological Anthropology
DOI: 10.1002/ajpa.24598
問い合わせ先
- 研究内容に関すること
蔦谷 匠(総合研究大学院大学・先導科学研究科・助教)
電子メール:tsutaya_takumi(at)soken.ac.jp - 報道担当
国立大学法人 総合研究大学院大学
総合企画課 広報社会連携係
電話: 046-858-1629
電子メール: kouhou1(at)ml.soken.ac.jp