2021.05.26
SOKENDAI TALKS - 知への欲求 - 第1回:田中優子氏
SOKENDAI TALKS - 知への欲求 -
SOKENDAI TALKS「知への欲求」は、本学の研究者と、各界でご活躍される方々との対談動画です。第1回目は、前法政大学総長の田中優子教授をお招きし、本学の長谷川眞理子学長と、江戸時代から現代にいたるまで学問が社会に果たしてきた役割について、対談いただきました。
(2021年3月5日撮影)
田中優子
法政大学総長(2014年4月-2021年3月)。
法政大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。
専門は江戸時代の文学・生活文化、アジア比較文化。
神奈川県出身。
SOKENDAI TALKS
前編
中編
後編
テキスト
長谷川
総合研究大学院大学はすごく特殊で、他にあまり例のないような作りなので、あまりお互いの大学の経営や運営に関して参考になるという話ではなくて、もっと学問全体、日本の社会全体など、色々な話を伺いたいと思います。
私は自然人類学の出身で、生物学的に見た時の人間の本質とか、人間について興味がありますので、ゴリゴリの物理学とか、そういうところではないのですが。
江戸とか、日本の深い所とか、日本人ですがあまり分かっているわけではないので、先生から見た日本とか、江戸とか、江戸と学問とか、一番印象深いようなところからお話しいただけますか。
田中
そうですね。総長になってから大学の成り立ちがやはりとても気になったんですね。法政大学は、1880年に最初の大学の母体ができるんです。東京法学社というのは、今の神田の神保町あたりにできました。それを作った人達がどんな人たちなのかというと、まず地方から出てきている。それから20代の若者。しかも地方の藩士の家に生まれた人たちなんです。明治大学もほとんど同じです。法政大学の場合は3人の若者が作ったというはじまりの物語があって、明治大学も全く同じく3人の若者が作ったという物語があります。
法政大学の場合には大分県の杵築市、杵築藩という藩の藩士の家の息子たちがまず2人出てきて、それから京都の石門心学という学者の家の息子がまた出てきて、それで3人で作ることになるんですね。
明治大学の場合には福井や山形、それぞれやはり地方の藩士の息子たちが東京に出てきて作るんです。ということは、彼らは江戸時代に教育を受けているのです。
しかも藩士の息子達ですから、藩校に行っています。その人たちが東京に出てきて、しかもその一部は官僚にもなったりするけれども、学校を次々に作っていくというのは、いったい何なんだろうと、非常に興味を持ちました。
藩士の息子たちが何をしていたのかということをよく見てみると、まず素読と呼ばれる暗唱です。論語とか四書五経を暗唱するというプロセスから始まって、これは6、7歳から始まるので、非常に長い間そういう教育を受けますが、暗唱し終わった時には体に言葉が入っている状態です。その時には大体の意味は教わっているけれども、もっと深い意味を、講義を聞いて分かるんです。ところがそれでおしまいではなく、その後議論のプロセスがあります。それを「会読(かいどく)」といいまして、議論するわけですが、どうやって議論をするかというと、だいたい10人ぐらいが1グループになって、1人ずつ自分で講義をするんです。一人が教壇に立って講義をし、それを聞いている仲間たちがどんどん質問をして、詰問をして、大変な議論になったりして。先生ができるだけ横で見ていて、収拾がつかなくなったら、ちょっと入ってくる、そういうやり方をするんですね。
それで分かったのは、彼らには議論の能力があるのだと。ものを暗唱するというだけではなくて、自分で考える、しかもそれを言葉に出すという訓練をしてきたのだということが分かってきました。実は、その訓練の中で自由民権運動が起こってきた。明治日本というのは、やはり武士たちによって作られたのです。その基本になるのは、そういう議論の力、自分でものを考える力なんです。
日本の大学の成り立ちは、ヨーロッパからそのまま持ってきたわけではないのです。
長谷川
ヨーロッパから持ってきたところはあるのだけれども、それがどうして、ここまで日本流に根付いたのかという理由は、きちんと日本側にあったということですね。
田中
そうなんです。私たちが近代になって誤解していたのは、江戸時代の教育というものをただ暗唱するだけだろうと、考えていたこと。私は、それは最初から違うのではないかなと思っていたのですが、寺子屋教育って全く違うんです。
寺子屋の絵を公文研究所が収集していて、非常にたくさん残っています。その絵の共通点が、学級崩壊している、ということなんです。
長谷川
あっちでこれをやり、こっちであれをやり、みんなしゃべっている、という。
田中
全然統一していないし、そもそも先生の方を見ていない。先生は、教室の中にいらっしゃるんだけれども、誰も先生を見ていない。一人一つの机なのですが、その机は入学するときに親に買ってもらった机なんです。だから自分の机なんですよ。自分の机なんだからどこに置いてもいいでしょ、という感覚があって、自分の好きな所に置いてやっているんですね。
しかも年齢もまちまちなんです。
長谷川
異年齢集団ですね。あれ、いいのよね。
田中
そうすると先生としても、指導の仕方がどうしても個々の指導になります。教科書も非常にたくさん出版されていて、生徒に合わせて与えますから、教科書もバラバラ。そうやって一人一人に、今日あなたはこの稽古、レッスンです、(別の)あなたはそこのレッスンをする、それで、どのぐらいの時間で仕上げなさい、と指示を出す。生徒は先生のところに持ってきて、添削をしてもらうわけですね。
面白いのは、公文の絵を見ていると、どうも年上の人が2人ぐらい必ず入っているんです。つまり、チューター制をとっているんじゃないかなと。これがあるから、生徒への教育ができるんだなと思うんですよね。
私は町人への関心から、そういうことをずっと見ていましたから、やはり藩校とか私塾で行っている教育と寺子屋で行っている教育というのは、その意味でつながっていたんだということが分かってきました。つまり個人教育だったということです。ですから、高等教育になっても当然、個人が激しく議論しあい、自分の力を作っていく教育なんですよね。
長谷川
そうですか。そういうお話を聞くと、日本の国立大学、帝国大学というのは、官吏を養成するために官製のものを、ヨーロッパから、特にドイツとか、新興国の国家をつくるというアイデアの下に輸入して、それでお雇い外国人が一方的に教えて、良い官僚を全部作り出して、という雰囲気とは違うものが、日本にはあったということなんですね。
田中
そうですね。東大の場合には昌平黌という幕府の学校が一つの核になっていて、あと開成学校とか、これはヨーロッパの知識を江戸時代に取り入れていた組織で、あとは医学系の研究所とか、そういうところが一緒になって東大になるんですよね。けれどもやっぱり昌平黌が核になっていますから、同じような教育をしていたはずなんです。
長谷川
一般に流布している、日本的というようなものの中に、議論をしないとか、お互いに同じことを暗黙のうちに目指すとか、あまり自己主張をしないとか、そういうことが日本的という看板のもとにまとめてレッテルを貼られているような感じが、今は強いですが、そうではない伝統があったんですよね。
田中
そうなんです。むしろ同じ方向を目指して走るというのは、高度経済成長期になってから甚だしくなったのではないでしょうか。
長谷川
そうなんですよ。専業主婦もそうだし、会社で猛烈にやるとか、そういうのは確か高度経済成長期の50年代60年代の頃の特殊な状況の日本が生み出したものなのではないかしらね。
田中
そうですよね。明治時代の女性を見ていても、一人一人非常に違う考えを持っていたりしますし、明治大正期は、専業主婦なんて本当に一握りですからね。
長谷川
いないですよね。専業主婦というアイデンティティはないんだと思いますね。
田中
江戸文化には全くないですから、専業主婦は。みんな働くというのは当たり前ですからね。
長谷川
お話を伺っていますと、今までもチラチラと色々なところから聞いている断片的な知識ではありますが、江戸って面白いですね。江戸が終わって明治期になったときに、大混乱の後に日本の基礎、今の近代国家の基礎みたいなものを作るのだけど、そのあたりは、ものすごく若いし、活気があって議論があって、色々なものを取り入れたけれども自分で解釈して作ったという強さがあって。本当に江戸とか、江戸から明治にかけてというのは、特殊で面白いですね。
そういうことを、最初から思っていらしたのですか?寺子屋に興味がおありだったのは。
田中
私が江戸時代に関心を持ったのは、そもそもは文学からなんです。でもそれは江戸時代そのものというよりも、近代文学をやっていて、それである時その小説家の一人に石川淳という小説家、もう亡くなりましたけれども。学部の時に、ゼミで、何人かの作家から選ぶというのがあり、石川淳を選んで読み始め、なんか面白いなと思って、全集を買い込んで片っ端から読んだんです。その時は、私は近代文学の世界でやっていこうと思っていたのです。物書きになろうと。だから江戸時代には全く関心が無かったです。古事記とか平家物語ぐらいには関心がありましたが、江戸時代はすっぽり抜け落ちていたくらいに、関心が無かったのです。
だけど石川淳の全集を読んでいったときに、『江戸人の発想法について』という、すごく短いエッセーなんですが、それを読んだ瞬間に衝撃的な何かが分かってしまったんです。江戸というのは、すごい世界なんだと。こんな時代が日本にあったんだということに初めて気がついて、それまでまったく関心がなかったから学んでこなかったんですけれども、急いで勉強するようになって。
やればやるほど、すごいんですよ。すごいなと思うようになって、とにかく知的好奇心を抑えられないという状態になって、それで大学院に行ってとにかく研究しようと。先がどうなるかなんて、その時は考えませんでしたね。大学院に行くと自分がどうなるか、なんていうことを考えていられないくらいに夢中になって、それで江戸時代の研究に入っていきました。始まりはそれだったんですね。
ところが、文学そのものかというと、もうちょっと精神構造、まさに江戸人の発想法、それに気が付いたというか、「分かっちゃった」んですね。江戸時代のことを何にも知らないのに「分かっちゃった」んですよ。自分が何を分かったのかが、分からないんですよ。それで、何が分かったのか、分かるためには勉強するしかないという風になりましたね。
長谷川
そうですか。とにかくこれをやりたくて、興味があって、これはもう絶対に知的好奇心で突き進まなきゃいけない、大学院に入った後どうなるかなんて知らないっていうの、私も同じでした。
田中
同じですよね。きっとそうだろうなと、思います。
長谷川
ケンブリッジ大学やエール大学で教えたりしたときに、ヨーロッパの大学の起源も随分学んでみたんですけど、似ているといえば似ているのが、若者が作った、というところですね。当時、キリスト教会による教育では、キリスト教のお坊さんが偉くて、その人たちが若者に伝授する学校のようなものがあった。そのうちに神学、哲学に新しいことを言う人が出てきて、そういう人たちの話を聞きたいという若者が集まって作ったのが大学なんですね。それが13世紀とか12世紀とか。それと、ヨーロッパはラテン語が共通語だったので、イギリス人であろうがイタリア人であろうがベルギー人であろうが、ラテン語で話せば全部共通というのがあって、例えば『アベラールとエロイーズ』で有名なアベラールの哲学を聞きたいという人たちが、ヨーロッパ全国からパリ周辺に集まってきて、そこで一緒に寝泊まりするからカレッジができる。そういうことから始まっているので、最初から大学は国際機関だったんですよ。色々な国の人たちが、ある哲学者の話を聞きたいといって集まって、そこに一緒に住むので、そこの土地の税金を払いたくない。だから、大学という組織は、地方の都市国家のようなところの税金は免除、という交渉をした。でも、どこかに税金を払わなければいけないとすると、我々は唯一ローマ教会に属していると言えるので、教会税は払うけど地方税は払わない、とか、いろいろな交渉をしてて作ってきた。ヨーロッパでは、大学を国際組織として独立して作ってきたということが、根本的に大学の自治という概念の中にあると思います。
日本は色々な点で、そうした背景などなく取り入れたところもあれば、おっしゃっていたような、日本独自の、一生懸命独立して考えなければならない、といって若者が始めるというところもあり、すごく違うんだけれども似ているところもありますよね。
田中
そうですね、今おっしゃった、ある学者を中心にして集まるということで言うと、江戸時代の私塾はまさにそれなんですよ。これまでの藩校とは全然違って、私塾というのは塾長の顔なんですね。適塾もそうだし鳴滝塾そうですけれども、それぞれの塾長、例えば荻生徂徠が教えているとか、誰々が教えているとかというように、あの人のところに学びに行きたい、という。それで非常に遠いところからも来て、もちろんそこに暮らすわけですよ、一緒に。そうやって私塾は出来上がってきているので、そこから今の大学を考えると、今の大学は学長はどんどん変わるし、組織が大きくなりすぎているし、誰に教わりたいか、という言い方をしなくなっちゃいましたよね。
長谷川
そうですね。
田中
学問とは何かというのが、その辺りから崩れてきているのかなと思っています。江戸時代に、苦労して遠くから、例えば秋田の人が大分まで学びに行ったりするわけですよ。何のためにそんなことをやるのか。いくら私塾で学んでも、何も現実的に良いことはありません。つまり出世もしないし、職業にも繋がらないんですよ。お金だけ使うわけですね。じゃあ何のためなのかというと、人間になるためだと、皆、異口同音にそういう言い方をするわけです。人間とはどうあるべきか、なのです。
人間とはどうあるべきかの理想形があって、それが、「君子」「聖人」といわれるものですが、では「君子」「聖人」というのは一体どんな人なのかというのは、分からない。学んでみないとわからない。何かはっきりとした具体的なモデルがあるというよりも、どうも人間というのは理想というものがあって、自分はまともな、ちゃんとした人間なんだ、理想的な人間なんだと思える確信をつかみたいんですよね。それに突き動かされているらしいのですね。だから複数の所に行ったりもするわけです。そういう人間像は学問を通してしか獲得できないと考えられていた。そうすると女性も男性もそうなんですが、女性の中でももちろん学問をする人もいる、でも女性の場合には、歌詠みであることの方が多いんですけれども。
中国の儒教の考え方でいうと、一方で君子と小人、女性の場合ですと、淑女と女子、なんですね、それに当たるのが。「女子と小人は養い難し」という言葉があるのですけど、あれはそういう人たちは指導できないと言っているわけです。つまり学問を求めようとしない人たち、俗物とか、そういう意味なんですが、そういう人たちは指導できないということで、その向こう側に存在するのは女子ではなく淑女、つまり学問を目指している女性であり、小人ではなく君子、つまり学問を目指している男性である。そういう学問と人間性というものが直結した形で彼らには存在しているのです。そうすると四書五経に書かれていることは、だいたい納得がいくのです。
倫理の一番根幹のところにあるのは、身を修める、つまり自己コントロールです。自己コントロールが最初にあって、自分をコントロールできれば家制度もコントロールできるし、国もコントロールできるという考え方なんですよね。逆じゃないんです。国家からコントロールされるというような考え方はないわけです。
だから、色々な意味で、学問というのは個人に属しているらしい。それから個人の努力のあり方は、「学びて思わざれば則ち罔し」ということです。勉強だけしていて自分で考えないと結局何もわからない、だけれども、自分の中だけで考えていて何も学ばないと、大変危ない、という言葉がありますよね。あれは本当に究極の学問観なんです。学ぶと同時に考えましょうね、ということになる。ですから先ほど言ったような議論の仕組みができてくる、というような全体像なんですね。
近現代になって、法律も科学も全部を取り入れなきゃならない、とになった時に、どうも日本人は、それは現実的に役に立つものという風に受け止めてしまった。でも日本人にとって、学問がもともとそうなわけではないんですよね。ただヨーロッパから来たものはそういうもの(役に立つもの)なんだという受け止め方をしてしまったんですね。
長谷川
議論をするというのは、ヨーロッパの大学もそうで、有名な人のところ行って話を聞き、その後必ず討論の時間があるんですよ。13世紀や14世紀の絵を見ると、こっち側とこっち側に両方列があって、真ん中に先生がいるんです。賛成の人と反対の人で議論をして、収拾がつかなくなる先生が何か言うという、必ずディベート、ディスカッションがあるんですよ。ですので、構造的には同じですね。学ぶということの理想は知ることだけれど、そして考えて議論することだ、というのは、洋の東西を問わず本当はそうですね。
田中
ヨーロッパから入ってきたものの中では、そういう考え方を貫けなかったという問題が、やっぱり今まで尾を引いているような気がしますね。
長谷川
日本的とか日本人はそういう風になってしまうというものの中には、近代や高度成長の時にできたもので、本来の日本人的なものではない、というものも、いっぱいありますよね。
田中
そうです。明治の時にできたこともあるし、それからやはり戦争が変えていったことも、すごく大きかったと思います。明治に、戦争をずっとやっていませんでしたから、突然日清日露戦争に入っていって、勝って、それで第二次世界大戦に入っていって、という。割と大きかったのは、日本人が経験しなかった第一次世界大戦。この時期が非常に大きい事柄だったということがあるらしいけど、これはなぜかというと、大正の高度成長期、戦前の高度成長期だったからです。それで非常に浮かれてしまったと。第二次世界大戦の後は敗戦期だから、また別なんだけれども、ここにもまた高度成長期があるんですよね。結局学問というものは、成長をもたらすものだ、お金を生み出すものだ、学校もそのためにあるから、学校というのは出世のためにあるものだとか。
立身出世というのは明治時代に出てきますからね。学問と立身出世の結びついていった経過は、もうすでに明治時代に始まっているんだけれども、さらにそれがもっと一般社会の中で、就職と大学という問題になっていきますよね。
今、私立で、法政もそうなんですが、大学院にくる方たちは留学生が多くなっているけれど、日本人でちゃんと研究者になろうと思って大学院に来る人たちが、どんどん少なくなっているんです。
長谷川
それは全国そうです。
田中
そうですよね。理系でもなかなか増えていかない。修士でやめて就職していってしまうので。やっぱりそれは研究者になる と食べていかれない、就職できないというのが理由です。学校とか学問がいつもそれにつながるので、そこで考え方が止まっちゃうんですよね。
長谷川
だからなんかなんだかんだいって、ある意味社会にゆとりがないと、学問には行かないのかしら。
田中
どうなんでしょう。だって私たちだって、ゆとりは別になかったと思うんですよ。
長谷川
将来の見通しなど全くないけど、全然そんなことは気にしないで、そっちの興味のほうが先走っていました。
田中
そうですよね。そういうことってどうして起きないのかな。一部では起きてるんでしょうかね。
長谷川
多分私たち、同じ歳なんですよ。こちらにいる人たちは、20、30若いかもしれないから、分からないんです、もう若い世代の人たちが本当にどういう感覚で暮らしているのか。先生はまだしも学部学生を知っているでしょう。私は学部学生も知らずに15年経ってしまったので、本当に若い世代が日常的にどういう感覚で暮らしているのかを、分からなくなってしまったので、そういう人が、若者の学問のなんとかとか言ってちゃいけないだろうと思うんですけれども。
戦後の70年のこの歴史の中で、大きなことじゃなくて、小さいまとまりで、安定したステップを求めて、冒険はしなくてとか、だんだんだんだんそういう風になってきてしまっているように感じます。将来への不安感とか、そういうことの方が大きくて、面白いことをやろうという良い点は小さくなってという風に、逆転しているのかなという気がします。これを逆転させないとダメですよね。
田中
でもじゃあ不安でなくすということができるのかというと、それはできないと思う。不安でもいいじゃないって言いたいのだけれど。
長谷川
その不安に対して、それはまあさておきという風に、自分で思わないとダメですよね。
田中
そうなんですよ。不安は不安なんだけれど、別のエネルギーの方がそれを上回ってしまって、自分を抑えられない、というように。
長谷川
これ以外のことしたくないんだから、っていう。
田中
でも必ずいるはずなんですよ、そういう人は。それ以外のことをしたくないっていう人をどうやって応援するか、ですね。
長谷川
そこを、短期的な成果みたいなことで言っちゃいけないですよね。
田中
私が最初に江戸文化に関心を持った時に、すごく大事なことだと思ったことがあって、それが、「連」というものです。これは私塾でもないし、なんでもない。つまりそういう学問の世界ではなくて、でもある目的を持って、これを作ろうという目的をもって、何人かの色々な能力を持った人が集まって、その能力を発揮しながら達成していく。例えば、浮世絵は基本的にはモノクロだった、これをカラーにしよう、というのは、業者さんがやったんじゃなくて、連に集まった人たちだったんですね。そこにはもちろん彫師とか摺師とかという職人さんもいるんだけれども、どんなテーマでやろうかとか、どういう色合いにしようかとかを、色々とアドバイスする文学者とか色々な人が入ってくるんですよ。それでやってしまうわけです。完成させてしまう。終われば解散するんですね。解散するんだけれど、また別の連ができる、というふうに色々な所に色々な連ができていくんですね。それが江戸文化を作っていくんです。
ここにはパトロンがいるんです。旗本の誰々さんがどうもお金を出しているらしい、とか。その旗本の名前の一部分が浮世絵の隅っこに出てくるんですね。ところが、一見して分からないようになっている。なぜかというと別の名前を使うから。そうやって連の中では、みんなが多名、名前をたくさん持っていて、使い分けているんです。ですからパトロンも見えないんです。見えないけれど、調べていくと、どうもこの人がお金をだしているな、というのが分かってくるんですね。 そのパトロネージの方で言うと、「連」とか「結社」とか、あと「社」というものだと、だいたい漢詩をする人たちが集まっている所です。様々なそういう組織があって、面白いのは、絶対に大きくならないのです。大体10人とか20人とかで、それ以上にはならないんですね。だから、同じような目的の連がいくつもできるんです。そしてお互いに連絡はしあっている。そういうことが動き続けている社会なんです。
そうすると、個人として何をやったかというのが評価されるのではなくて、むしろ皆で何をやったかというものがあって、生まれてくる。それでいいと皆思っているんですね。できたものはもちろんマーケットに出ていくのですが、そのために出版社の社長、つまり版元がそういうところ(連)に入ってくる、ということが起こるんですよ。それが起こるから、(成果物が)どんどんマーケットに出ていくんですね。文学作品とか、戯作の作品とか浮世絵とか。それもまた一種のパトロネージになるわけですよね。
そういうふうに、小さなパトロンがいろんなところにいるという現象は、あります。
長谷川
面白いですね。表立って見えないとか。ヨーロッパの大学は創立者というか、パトロンの銅像がどーんと建っていたり、門の上に石像が建っていたりしますから、必ず誰がお金を出したかは分かりますからね。そういうことをあまりしないというのは、日本的なのかな。
田中
そうですね。あと、そんなにたくさんお金を持っている金持ち、大金持ちがいない、っていう。
長谷川
それはそうですよね。 日本には寄附文化がどうのこうの、という話もあるけど、あんな大金持ち日本にいないですよね。
田中
今度の本の題名に「もだえ神」という言葉を使ったんですが、あれは長谷川さんがおっしゃる「共感」のことなんです。強烈な共感のことなんです。寄り添うけど何にもできないから、寄り添ってもだえるしかない。非常に強い共感なんですね。そのことと、生き物にまなざしを向けてきたこというのは、とても近いものがあったんじゃないかな、という気がしますね。
長谷川
私も3歳から5歳ぐらいなんですよ、紀伊田辺という、和歌山県の田辺市に祖父母がいて、そこに預けられてたので。母が結核で入院しちゃったので、治るまで行かされていたんですけどね。その紀伊田辺の海辺というのが、今のテトラポッドなどがあるようなところとは全然違って、本当に綺麗な海で、磯があって、イソギンチャクだのなんだのがいっぱいいて、素晴らしかった。私の生物好きの原点はそこなんですけどね。そういう原点がある時と無い時では、全然違いますよね、興味や世界観が。
田中
生き方というものにすごく大きい良い影響を与えているんじゃないかな、というふうに思いますね。
そういう原点があって、いろんな分野があるけれども、それが理系に繋がるというのが、どうなのかなと。少ないんですよ、やっぱり。理系に進学してくれる女子学生が少なくて、教員が少なくて、大変困っていて、何をしたらいいんだろうかと考えてるんですが、総長として。だけど、その私自身も子供の事を考えると、小学校の6年生とか中学1年生で、星の観察に夢中だったり、地学の時間に地層を見るのが大好きだったり、植物のことも、膜を通して水が出入りするという現象はすごく気になったり、というようなことがあって、SFも大好きだったり、それがじゃあ専門につながるのかというと、やっぱりそっちにはなかなか行きにくい、そういう道が見えない、みたいになっちゃったんですね。でもそういうことが好きな女の子って、絶対いるので、そういう女性たちが、自分の将来につなげてもいいんだ、と思えるのは、どういうきっかけかな、と。それは伺いたかったのですが。
長谷川
私は、さっきも二人で言っていたような、「これが面白いからやりたい」というので突き進んできたので、学者というか科学者という漠然とした、科学者がどうやって食べてるかなんて知りませんでしたからね、科学者というものに憧れて。科学者になりたいというのは、小学校からずっとそうなんですよ。
ひとつは、キューリー夫人伝。素晴らしいと思ったし、こういうふうに色々解明したいと思ったし、化学の実験器具なんか買ってもらったりして、酸素ブクブクやったりとかしてたんですよ。物理なんかも好きだったし、生物は本当に小さい頃から綺麗だと思って好きだったけど、物理や化学の、ちゃんと原理から始まって説明がつくということが、すごく嬉しかったのです。それで、自然科学系に行こうと思ってたんですけどね。
キュリー夫人は女性で科学者で、ひとつのロールモデルだったというのはあるかもしれません。でも日本でいないでしょ。本当に、上の人にいないんですよね。そういう意味でのロールモデルの女性の科学者はなかなかいなくて、私は一人っ子で勝手に暮らさせてもらっていたし、さっきのような母だから、何でもどうぞという感じで育ててくれて、キュリー夫人がどっかにあり、というので、まぁよかったのかもしれないんです。
でもね、最近の「ニューサイエンティスト」というイギリスの雑誌に載っていた報告で、イギリスでももちろん物理系とか自然系に進む女の子は少ないんだって。女子学生と男子学生を比べると少ない。それで、大学に行く前のコンプリヘンシブ・スクール、普通の公立学校みたいなところで、自然科学系の先生が男性ばかりのところが多いんだけど、そこに女性の先生が配置されている学校と、配置されていない学校をまず分ける。で、配置されている学校に頼んで、この女の先生に、「実験を3人とか5人でやる時には必ず女の子をリーダーに指名してください」「質問ありますかといって手が上がった時に、まず女の子を当ててください」というのを、こっちのグループでやらせて、一方のグループでは男の先生に普通にやらせた。その後、3年4年経ってどうなったかを調べたところ、女の先生が女の子をリーダーにさせたグループでは、女の子の理系進学率が2倍ぐらいになった。
田中
ああやっぱり。やり方があるんだ。
長谷川
そう、やり方があるんですよ。無意識のうちに先生から、女の子はいいんだよみたいに言われていることが、悪意がなくても、抑制してるという事がすごく効いてくるので、それを積極的に変えればここまで変わる、という報告があったので。
田中
それはいい話を聞きました。
さきほど、漠然とした科学者というね、それもすごく大事だなと思ったのは、私は漠然と物書きになりたいと、物書きって何?という風に考えるとなんだかよくわかんないです。どうやって食べてるのか、そもそも何を書くの?ていう。でも、とにかく物書きになりたいと、ずっと思い込んでいたんですね。そういうのでもいいわけですよね、科学者になりたい、という。
長谷川
だから、あんまり詳しく、将来設計とか、どうやってキャリアを積みましょうとか、そういうことをあまり考えないで、ある種の原動力で突っ走るっていうのは、大事なことだとですね。
田中
今、もしかしたらどんな職業に就きたいのとか、とやり過ぎるかも知れない。科学者でなくても、医者になりたいとか薬剤師になりたいとかでも、実利的な方にどうしても入って行ってしまう。
この1年経験して、いい機会だなっていうふうに思っています。なぜかというと、一人ひとりに教える、ということを、今まで大学はやってこなかった。まさに教育という言葉が象徴しているように、教えるんですよ。
長谷川
教えたい側が教えたいことを教えたいように教える。
田中
しかも大教室で、時には500人とか1000人の学生を相手にして一方的に話す。さっき寺子屋の例で言ったように、もともと、先生の方に全部同じ向きに机を並べるなんていうことは、日本にはなかったわけですね。それは明治以降今始まってて、そのこと自体は、教育の裾野が広がるということではよかったのだけれども、結局は一人の人が大勢に一方的に話すという型を作ってしまった、ということがあると思うんですね。大学はやっぱりその延長できて、高度経済成長時代には進学率は上がるし、団塊の世代でどんどん数は増えるし、その傾向が益々大きくなっていった。一斉教育ということですよね、小学校から大学まで。これじゃまずいなって思いながら、ずっとそれできてしまって。
長谷川
まずいな、と思うことはいっぱいありながら、慣性がそっちに行くので、どうしても中断てきない、というか変えられなかった。
田中
教室構造もそうなっているし、固定的な階段教室とかになっているし。でも今回のコロナで経験したことは、オンラインで一人一人と向き合わなければならなくなってしまった、ということがあったんですね。学生の側も、孤独ではあるけれども、とにかくみんなと横並びで同じ話を聞くというよりも、先生が自分に向かって話している、その感覚の中で自分は質問をしたり回答したりしなければならなくなった。というこの経験を初めて持ったわけですよね。
これはインターネットがないとできなかった。でもインターネットで様々な仕組み、学習支援システムが作られていて、もしかしたら、これを伸ばしていくと、チューターなどを間にいれながらでも、個々の学生が求める学びというものを、教員が一緒に設計して、達成度を測りながらそこに向かっていくというやり方ができるんじゃないかな、と私は思い始めているんです。
法政大学では今回、チューターを大幅に学内雇用をしたんですね。
長谷川
そうですか、TAですか。上の学年の学生ですね。
田中
そうです。大学院生だけではなくて、学部の学生でも、オンライン授業になったときに困っている学生がいますから、1年生とか2年生で。その人たちを助ける。それから、先生の中で不慣れな人が必ずいるので、その人を助ける。しかもアルバイトを失っているので、無制限に受け入れますという風に学内雇用をしたんですね。実際、そういう存在はとても大事で、間にいる人はいつもいて、教師が受け止めきれない数の質問や、一人一人への指導だとかをチューターが複数入ってやっていくようになると、オンラインを使えば、オンラインに限りませんが、対面とオンラインのハイブリッドとかハイフレックスとかの体制が整っていますから。そういうものを使いながら、そういう仕組みで個々の学生が学ぶやり方、自分なりの学び方って言うんでしょうかね。その方向に向かう可能性があるって、今思っています。
長谷川
本当にそうですよね。今までの型だというので、ずっと突っ走ってきて、それを途中で止めるわけにはいかなかったのが、強制的に今までのやり方ができなくなったということで、ものすごくいいチャンスだと私は思います。本当にそれで日本の社会が変わり始めたので、コロナが終わったからといってまた元には戻らないでいいんじゃないかと思ってるんです。
学問にしても、おっしゃったように先生方が自分の喋りたいことをみんなに対して一方的に言って、それで試験をするのが結構当たり前になってしまって、これっておかしいよねって、ずっと言ってましたよね。言ってましたけど、なかなか変えることができなかったのは、やっぱり授業の規模っていうのがあるから。本当にうちの大学は、1人とか3人とかの授業ばっかりなんですけど、1人とかそんなのでは授業がなかなかできないから、やっぱり数集めますよね、ということで、うちみたいな少人数な所でもうまくいかないし、大規模だけでもうまくいかないし。という風だったのが、ネットを使うことによって随分可能性が広がってきたのではないかと思います。
私が、エール大学に教えに行った時、エールはやっぱり大教室の講義もあるんですけど、1人の先生がちゃんと面倒を見られる人数は30人だという常識があるの。それで30人以上の学生が集まった授業には必ず30人に一人ずつTAが付くんです。私の「Primatology(霊長類学)」っていう講義は36人だったので、TAが一人付いたんです。
そうすると、たくさんの質問があったらそのTAがさばいてくれるし、レポートの採点もTAがやってくれるし。TAはちゃんとわたしの分野がわかっている大学院生なので、全部間に立ってやってくれて、それであまりにも手に負えないとかいろんなことがあると、こっち(教員)にくるんですよね。そのせいで、2回目に(エールに)行った時には、「TAを酷使しないで下さい」みたいなお触れが出ていて。何でもやらせて困ってしまったTAがいたようで、そういう振れはあるんですけれど。日本の昔の大学は、そういうサポート体制っていうのは殆どなくて、やってきましたよね。だからサポート要員を大学が雇わなきゃいけない、という切実さも感じてなかったですよね。
田中
どうしても大教室授業って、時間割というのがあって、しかも大学設置基準とか様々な基準で、100分だと14回で、90分で15回とか、全部守ってくださいねという風に言われて。シラバスは前の年に出して、みたいな決まった内容でやって、逸脱しないで下さいね、という。そういうやり方ですよね。まさに時間、空間の全てで、「教える管理体制」という風な状態で、それではまずいと言いながら、今までずっと、つい1年前までやってたんですよね。やっぱりそれはおかしいということが、これでかなりはっきりしたと思います。
長谷川
ですのでアクティブラーニングなど、「学ぶ側の目」とかって言われてたけどなかなか実現しなかったものが、本気でそうなりつつあると思います。でもそれはやっぱりインターネットがこれだけ進んでたからできることですね。
田中
まだまだ現在の教員たちはそれに慣れていないから、やはりTAとどういうふうにやり取りするかということも含めてね。TAは何をする人かということも含めて、徐々に始めなくちゃならないだろうと思いますね。
長谷川
あと、オンラインの会議で出来ることと出来ないことが分かりましたよね。出来ることはこんなにあるんだけど、やっぱり対面で会ってコソコソ色々話したりもしなきゃいけないし。これは出来ないよね、という色分けを習いつつあると思う。
田中
本当に、微妙なニュアンスを伝えるなんてできないから。だいたいそんなの伝わらないので、いつもはっきりしたもの言いをしなきゃならないという風になってしまうし。 例えば対面の講義で何をしてたのかなって振り返ってみると、随分色々なことを見てたな、と思うんです。 たくさん目の前に学生がいるんだけれども、あっちで何してて、こっちで何してて、どこかで誰かがおしゃべりしてるのをちゃんと見てたりしてたんですよ。それに気がつきましたね。随分人間というのは、一瞬のうちにいろんなことを見てとって理解しているものなのだな、というふうに改めて思います。
長谷川
意識下でいろいろやっていることが実はすごく氷山の下にあって、意識して理解していることが上にあって、この下のところっていうのをオンラインがどのくらい拾えるか、そこがネックですよね。でも良い方向に大学が変われればいいと思いますが。
田中
元に戻っちゃいけないですよね。 私立大学には日本私立大学連盟というのがあって、いつも文科省だとか内閣府に意見を言うんですけれども、その中にやっぱり大学設置基準の変更というのを色々と今言っているところです。
長谷川
やっぱりねこんなもの(オンライン)が無かった時代に作った基準ですよね。それに価値観も違った時代の基準ですものね。変わるかしら。フレキシビリティは日本にあるのかしら。
田中
そうですね。私は3月でお終いなので、変われるのかどうか楽しみだけど、責任は取れないです。
長谷川
私はあと2年あるので何とかしないといけないと思ってますけど。最近ね、もう年をとってきたのでね、私は色々やったから後はもういいやっていう気もしてきたの。昔はそんなことなかったんだけど。
田中
分かる!
長谷川
昔はそんなことなくて、この世界が最後がどうなるのかまで見届けたいと思ってね。死なないで、まあ死んでもいいんだけど、生態系の破壊とか色々いわれていることが、最後にどうなるのかまで見届けたいとか思っていたんだけど、最近はまあ次の世代の人がやればいいか、と。
でもそれはある意味しょうがないですね、年取ったんだもの。次の世代に期待しましょう。
田中
期待しましょう。
田中
私は長谷川さんの、「共感」っていうことがね、これからますます大事なことになっていくなと思っていて、私もよく使うんですよ。つまり想像力だけじゃ足りない部分があるので、やっぱりもっと「共に感じる」ということですよね。 仰るのは、やっぱり前頭葉を使って、っていうことですよね。そこがすごく大事だと。
長谷川
そう。社会的共感っていうのが、両面あるということが分かったのが一番の収穫だと思うんです。単に痛みが伝染するとか、悲しみが伝染するっていうのは、ACCのところで自動的にやるのだけど、自分自身が痛いと思った時と、自分自身が差別されて痛いと思った痛いは同じところで感じている。 ところが他人がいじめられて痛いと思っていることを感じるのは、ACCじゃないんですよね。前頭葉なんです。
田中
そうかと思って学びました。
長谷川
だからこそそこを消せば、あいつらは人間じゃない、という風になれる、ということなんです。
田中
そこをシャットダウンすれば。
長谷川
そう。できるということはつまり、考えないようにすれば、あれは違う連中なんだという風にして、わざと共感を感じないということもできるんだなと思って。なんか面白いですね、脳みそって。そういう風にできている。
田中
そうですね。でもそれは、じゃあどういう風にそれを鍛えるかっていうことにも繋がるし。
長谷川
前頭葉でどうやって考えて、そして湧き上がってきた自分の情動というのをどう結び付けて考えていくかですよね。とても大変。。。
田中
「共感」ということだけに焦点を当てて、どうすれば共感の力を前頭葉で養えるか、という本を書いてください。
長谷川
じゃあ、夫と二人でちょっと考えてみます。結構、衝撃的だったんですよ、あの研究結果はね。