2020.03.24
令和元年度春季学位記授与 学長メッセージ【令和2年3月24日】
CUDOsとPLACE:学者の集団はどんな行動原理で動いているのか?
みなさん、本日は学位授与の日です。しかしながら、新型コロナウィルスの感染拡大がなかなか収束せず、みなさんが葉山の本部に集まって行う学位記授与式は中止となりました。ご家族や専攻の先生方、そして全学の他の専攻の院生たちなどと一堂に会してお祝いをしたかったのですが、まことに残念です。みなが集まることはできませんが、各専攻でそれぞれに、みなさまの学位記授与のお祝いをしてくださることと思います。
みなさんは、総研大に入学してから数年間をかけて、博士論文の研究に取り組んでこられました。研究がうまくいっているときには、本当にわくわくする楽しい瞬間を味わったことと思います。うまくいかないときは、とてもつらかったでしょう。眠れなくなったり、もうやめようかと思ったり、人生設計を間違えたのではないかと案じたりもしたのではないでしょうか? それでも、そんなこんなをすべて乗り越え、みなさんは、本日、博士の学位を授与されました。心よりお祝い申し上げます。これまで、みなさんの研究を指導してくださった先生方、そして、毎日の生活を支えてくださったご家族の方々にも感謝の意を表し、お祝いを申し上げたいと思います。
みなさんは、博士の学位を取得したということは、自分にとってどんな意味を持つとお考えですか? 研究者となってこれからも研究を続ける道を選んだ方々にとっては、学位は運転免許証のようなもので、これでやっと一人前の研究者として認められるスタートに立ったということでしょう。研究者以外の道を選んだ方々にとっては、どうでしょうか? しかし、研究者になるかならないかという職業選択の問題を越えて、一人の人間として、学位を取得したことで、自分にはどんな能力が付け加わったと思われますか?
みなさんは、ある研究分野で一つのテーマについて詳しく研究を行い、その過程でいくつかの研究方法を習得し、その分野におけるこれまでの研究成果を熟知した上で、既存の知識になにがしかの発見や考察を付け加えることができたはずです。これは、研究業績という意味です。しかし、それだけでなく、博士号の研究を始めた数年前と比べて、学位研究を通じて、一人の人間として、みなさんはどのように成長しましたか? それを考えてください。そのことを自覚すれば、みなさんがこの先どんな人生の道を歩むにせよ、それらの力を糧として役立てることができると信じます。
さて、学問の世界、学者の世界とは、どんな信条を持った人々の集まりなのでしょうか? 学者たちは、学問はどのように行われるべきだと考えているのでしょうか? このことについて、最初に明確に書き残したのは、アメリカの社会学者のロバート・キング・マートンだと思います。彼は、とくに科学者の集団が、自分たちの仕事のやり方として共通に持っている行動規範と思われるものをまとめました。 1942 年のことでした。
それは、1) Communalism (知識の共有性):科学的知識は、学者全員・社会全体で共有されるべきものである、2) Universality (普遍性):研究者の国籍・性別・文化的背景などとは関係なく、すべての科学者は科学的真理に貢献できる、3) Disinterestedness (利益の超越):科学の成果は人類全体の利益に供するものであり、科学者の私利私欲や特定の信条のためではない、4) Organized skepticism (組織的懐疑主義):誰による、いかなる科学的知見に対しても、それが受け入れられる前には批判的な検討を受ける、という4つでした。これらの頭文字をとって、 CUDO と呼ばれています。 Kudos という英語の単語があって、「称賛、名声」という意味です。 K ではなくて C なのですが、この単語にかけて、マートンの Cudos として知られています。
私が初めてマートンの Cudos を知ったとき、科学者の活動に対する一種の理想的な姿として、まさにもっともなことだと思いました。しかし、本当にそうでしょうか? マートン自身、これを書いたとき、近代科学の形成期以後の、過去の科学者の活動をもとに考えたと言われています。20世紀の科学者の研究のやり方について、実証的研究をして結論を出したわけではないようです。彼も、一種の理想像としてまとめたのだと思います。
やがて、 1994 年になって、イギリス生まれのニュージーランドの物理学者、ジョン・マイケル・ザイマンが、マートンの規範は理想であって、現実はそうなっていない、という意見を表明しました。彼は、実際の科学者の世界では、1) Proprietary (占有的、独占的):科学の知識は科学者の所有物であり、知識を資源として持つ自分たちが研究成果を独占しようとする、2) Local (局所的):今や、個々の科学者が明らかにしているのは、局所的な「真理」に過ぎず、誰も全体像を理解してはいない、3) Authoritarian (権威主義的):科学者の間には権威の序列があり、権威を持つ人物の考えが軸となって研究が進む、4) Commissioned (請負い、受注):科学者は、多くの場合、政府や資本家から委託されて研究を行なっており、そこから利益を得ている、5) Expert (専門的):科学者は専門家として振る舞い、専門家の権威が求められる、ということになっていると述べました。この意見は、これもその頭文字をとって、 PLACE と呼ばれています。
ザイマンは、現実の科学者の活動は、とてもマートンの言うように動いてはいない、と言いたかったわけです。私は、ザイマンの考察にも、うなずけるところはありますが、ちょっと違うと思うところもあります。
Proprietary については、研究成果で特許を取ることはあり、アイデアの先取権の問題もありますが、基本的に学者はすべて、研究成果は公共のものだと考えていると思います。
Local については、最近の学問はますます細分化が進み、ますます細かい研究が行われているのは事実です。毎年、数百万という論文が出版されているそうです。今や、一人の科学者がすべての成果を理解するなど不可能になりました。ザイマンが言うように、一人一人の科学者の研究成果は、その研究分野での局所的な意味しか持たないのかもしれません。それでも、科学的事実が普遍性を持つものであらねばならないというのは、その通りでしょう。ザイマンは、別の論文で、科学者は「メタ科学」を学ばねばならず、科学全体の社会的・倫理的意味を考えることが必要だと述べています。私は、その意見にも賛成ですが、そうすることが、ますます難しくなっているのが現状ですね。
また、ザイマンの言う Local は、言葉としては、マートンの Universality との対比のように見えますが、内容は違うと思います。ザイマンの言う Local も問題ですが、マートンは、個々の学者の文化や国籍、性別などは科学研究を進める上で関係ない、と言っているのです。このことに対しても、それは理想であって、実際には欧米の白人の男性の研究成果が、そうではない科学者による研究成果よりも不当に注目されている、という批判があります。おそらくそうでしょうが、最近は変わりつつあると思います。
Authoritarian については、科学者も人間ですから、科学者の世界にも序列は生じます。権威と呼ばれる人たちも存在し、そのような人たちの意見で研究費の配分その他が影響されることはあります。それには、良い面も悪い面もあるでしょう。それでも、科学の集まりでは、どんな発表にも誰もが質疑に加わることができますし、それが奨励されています。権威と呼ばれる人物の発表に対しても、たとえ一介の大学院生であっても、おかしいと思ったことは指摘してかまわないのだということは、すべての科学者が共有していると思います。
Commissioned については、ザイマンは、近年の科学研究が、研究者の私利私欲と無関係に行われていることはなく、さまざまな利害の絡み合った作業だということを指摘しています。それは事実で、 1942 年にマートンが論考をしたころに比べて、科学活動と産業界との結びつきは格段に強くなりました。昨今は、科学者個人も、大学という組織も、産業界から資金を獲得し、産業界の発展に対して貢献すること要求されています。大学の研究者も、自分のアイデアをもとにベンチャービジネスを立ち上げて儲けを出すことが奨励されています。そういう科学研究のあり方もあるでしょう。科学も人間の営みなので、社会の経済活動の中に組み込まれ、利益と結びつくことも必然的に起こるでしょう。しかし、私利私欲のために研究しているわけではない、という感じは、多くの科学者が抱いているのではないかと私は思います。そして、研究のあり方と利益との間に齟齬が生じたときには、科学者は、私利私欲を優先させるという判断はしないと、私は希望します。
みなさんは、博士の学位研究を成し遂げ、博士論文を書き、それが博士の称号に値するものと認められ、本日、学位を授与されました。その意味で、みなさんは expert です。ザイマンは悪い意味で expert のあり方をとらえているようですが、そうではなくて、 expert としての責任をみなさんは自覚していただきたいと思います。
学者としての巣立ちを迎えたこの日以降、みなさんには、学問とは何かについてのご自身の考えを形成していっていただきたいと思います。今日は、 CUDOs と PLACE という言葉を取り上げましたが、研究活動のあり方や研究と社会との関係についても、自分の意見を述べられる人に育っていただきたいと思います。
改めまして、本日はおめでとうございます。これからのご活躍を期待します。
総合研究大学院大学 学長
長谷川眞理子